タグ： かしわもち

男は昔からギターを習わされていた。そのおかげか、男の音感は人のそれより長けていた。 男はそれに甘んじた。鍛錬・練習をせずとも、依然として自分は人よりも遥か先を歩いていると、そう錯覚していた。 自分の歌で、世界を変えてやろう。街行く人の心を躍らせよう。 余裕を顔に浮かべながら、道中で相棒を取り出し、自分の想いを歌に乗せる。しかし、現実は残酷だ。 誰一人としてその歩みを止めるものはいない。いくら時間が経っても、いくら声を張り上げても。 道行く人の心の、表面に掠り傷をつけることすらかなわなかった。 片づけをしていると、一人の少女が歩みを止めた。今更興味をもってくれたのだろうか。演奏を聴かせてやる気力など一つまみも残っていないというのに。 だが、男はふと、この少女の笑顔が見たくなったのだ。今日一日の、そのせめてもの報いが、癒しが、欲しかったのだ。 幸いにして、男にはもう一つの武器があった。話術だ。 幼い頃に親を事故で亡くした時、笑うことをすっかり忘れてしまっていた自分。そんな自分を無理やりにでも笑わせようと、 幼馴染が聞かせてくれた、一本の落語芸能のテープ。再生が終わる頃には、少年の顔から涙と笑顔がこぼれていた。 酷くくしゃくしゃな顔であったが、確かに笑うことはできたのだ。それ以来、男は一日の終わりに、必ず笑顔になれる話を聞くようにしていた。 そんな自分にとって、目の前の少女に向けて、小噺を紡ぐことなど、さほど難しくない。 自分でも驚くほどにすらすらと。それは短く、しかしとても濃密な数分間であった。 少女は、果たして笑ってくれた。涙をぬぐいながら。それだけで、男は十分元気をもらうことができていたのに。 気が付けば、少女の明るい笑い声につられ、人だかりができていた。 音楽では何も震わせることができなかった、しがないミュージシャンの姿など、どこにもいない。 それはまるで、あの時の幼馴染が、自分に生きる道を示してくれているかのようだった。 そういえば、今の少女の面影をどこかで。。。我に返った男は人だかりの中から少女を探すが、どこにもその姿は見当たらなかった。

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